カネ吉山本|創業明治二十九年。本場近江牛

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Omi-Beef Story|近江牛とは

近江牛は何故美味しいのか。

牛肉の美味しさとは、概ね脂肪の質であり
つまりは、「どれだけ牛のことを知っているか」ということ。

「牛肉の美味しさとは、概ね、脂肪の質で決まります。脂肪の多い少ないではありません。見た目だけのことではありません。そしてその質の良い脂肪をつくるのは血統であり、餌であり、水であり、生育環境です。結局のところ、つまりどれだけ牛のことを知っているか、ということになります」

カネ吉山本 会長の山本卓次は語ります。

「1つに、近江はもともと、古来より農産地としても栄えていました。
中でも近江牛の産地として知られる愛知川、日野川、野洲川の大きな河川のある一帯は、豊かな土壌と良質の水資源に恵まれていて、作物を育てるのに大変適した土地です。江州米(近江米)や、その裏作になる麦などの産地としても知られていますね」

近江でも、農作業にとって、牛は欠かせない存在でした。
明治になって食用としての牛肉が一般に広まりだす以前は、「牛」は乳牛以外はそのほとんどが「役牛」といって、農耕や運搬の動力として使われていました。さらに牛糞は農作物の肥料となっていました。今でこそ食肉に適していると言われる黒毛和種ですが、その黒毛和種の原型は、この日本古来の役牛でした。

「近江」という土地は、他のどの産地よりも牛のことを
深く知り、学び、健康な牛を育てる術を自然と受け継いできた。

「つまり、もともと農作のさかんであった近江一帯では、長いあいだ、現在の黒毛和種(の原型)の牛を育て、家族同然に牛と生活を共にしてきたという歴史と文化があったのです。近江という土地は、他のどの産地よりも牛のことを深く知り、学び、健康な牛を育てる術を自然と受け継いできたのです」(山本)

この牛を、食用に転用していったのが「近江牛」の始まりです。
数ある銘柄牛の中でも、近江牛の歴史は最も古く、江戸時代は近江牛の味噌漬けが養生薬の名目にて将軍家に食されていたこと、近江牛に纏わる逸話として、かの「桜田門外の変」は「食べ物の恨み」であったと言われていることは有名です。

桜田門外の変は「食べ物の恨み」だった?

近江牛の旨さが忘れられない徳川斉昭は、
自らが江戸城で井伊に懇願するに至り、恥を忍んで頭を下げた?

第15代将軍徳川慶喜の実父にあたる水戸藩主の徳川斉昭(なりあき)は、彦根藩(近江)より献上される近江牛の味噌漬けを好み、毎回の献上を楽しみにしていましたが、彦根藩主である井伊直弼は、大老になった際にそれまでは許されていた領内での牛の屠殺を禁じ、献上をやめてしまいます。

近江牛の旨さが忘れられない斉昭は、使いを立てて何度も再開を要請するも井伊直弼はまったく応じず、遂には斉昭自らが江戸城で井伊に懇願するに至ります。その荒々しい気性で「水戸の烈公」とまで呼ばれた斉昭が、恥を忍んで頭を下げたのです。
しかし、井伊直弼は、牛馬を殺生するなどとは野蛮人のすることだと斉昭を嘲笑し、断ってしまいます。
これに対して、斉昭の家来である水戸浪士たちは、主君を愚弄し恥をかかせたと激怒し、井伊に対して復讐を誓った、と伝えられます。

「大老の首が飛ぶほど」の美味い牛。

水戸庶民は、桜田門外の変のことを「烈公の肉の怨みを水戸藩士が討ち晴らした」「すき焼き討ち入り」「御牛騒動」と言っていたそうです。近江牛は「大老の首が飛ぶほど美味い牛」と詠われました。

「桜田門外の変」の僅か10日後に出版されたという瓦版(出典:桜田門外牛騒動之図「幕末確定史料大成 官武通紀・桜田騒動記(玉蟲左太夫)」)には、桜田門外の乱闘が描かれ、中央に牛の首の絵が、左下方に「モウ御免と桜田門」「食べ物の恨み恐ろし雪の朝」「大老が牛の代わりに首切られ」と詠まれています。

この「食べ物の恨み」が「桜田門外の変」にどれほどの影響を与えたかまではわかりませんが、これもひとつの史実、ではあるようです。

明治以降の近江商人と近江牛。

枝肉の出荷が近江八幡駅から始まり、
工夫に工夫を重ね、やがて「近江牛」の名が全国に轟く。

明治以降は近江商人が大活躍をします。
明治22年(西暦1889年)に鉄道が開通。明治初期、牛の輸送は、生きたままの牛を引き連れての陸路か船便でした。
船便では、東方へは神戸港-芝浦港というルートで近江牛が輸送されたのですが、神戸港では、近江牛にもその他の牛にも、出港元としての印である「神戸」の烙印が押され、そのため、到着した先では、近江、但馬、松坂の牛などすべてが「神戸牛」、国外では「Kobe Beef」と呼ばれました。

明治22年(西暦1889年)には鉄道の東海道本線が開通し、翌年より近江八幡駅から初めての鉄道を使った牛の輸送が始まり、「近江牛」という名がようやく全国に認知され始めます。
しかし明治25年には、朝鮮半島より牛疫が伝播し、生牛(たちうし:生きたままの牛のこと)を輸送することが禁止されてしまいます。

これに困り果てた近江商人たちは、そのしばらく後に、当時にしてみれば考えられないことをやってのけました。
枝肉(一頭の牛から、頭部や内臓などを取り除いた状態のこと)での出荷を始めたのです。
枝肉の出荷はやはり近江八幡駅から始まり、その後も工夫に工夫を重ね、やがて「近江牛」の名は全国に轟きました。
同時に、この枝肉での取引という手法も全国に広がっていき、現在では牧場-食肉業者間での取引やセリはそのほとんどが枝肉での取引となっています。今では全国で当たり前になっているこの取引方法は、もとは近江商人たちの「苦肉の策」だったのです。

信用と実績を高めたカネ吉山本は、大正の末
「宮内省(現在の「庁」)御用達」をおおせつかる。

この時に、「カネ吉山本」の創業者である山本竹三良は、近江牛の普及に大きく貢献しました。
竹三良は、近江牛を生牛としてではなく、牛肉として全国に普及させた最初の功労者の一人でした。

カネ吉山本は、大正の末には東京に卸売店を開設、東北・北海道にも販路を拡大し、信用と実積を高め、やがては宮内省(当時:現在の「庁」)御用達をおおせつかるまでになります。
当時は冷蔵・冷凍設備のなかった時代ですから、 牛肉は常に在庫することが出来ず、牛肉が入荷すると、太鼓を打ち鳴らして人々に知らせたといいます。また、夏場は油紙に牛肉を包んで、涼しい井戸に吊して保存するなど、今の私達には考えも及ばない数々の苦労がありました。

昭和の統制経済もあり、戦時中には牛肉の県外移出が禁止され、県外では何れも店を引きあげることを止む無きとされましたが、その後も、地元である滋賀県近江八幡にて、地域の皆様と信頼を築きあげてまいりました。

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